昭和46年 6月10日 月次祭
(併)御理解第7節「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はあやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある」
ああ、日々、信心をさせて頂いておる生活が、ああー、いかに有難いものか、また、ああー、有難いかという事を、おー、皆さんに見てもらったり、または聞いてもらったりして、えー、有難い生活に入って頂きたいというのが、これは私の願いであると同時に金光大神の願いであると同時に天地の親神様の願いであると。
本当に、えー、有難い生活。けれども、いかに聞いてもらっても見てもらっておっても、おー、それをただ聞いてもらった見てもらっただけではなんにもならんのです。ね、皆さん自身もやはりそういうおかげを頂いてもらわなければ値打ちのない事であります。そこでこの事をどのようにかして、皆さんのものにして頂きたいという事に、まあ心を使わせて頂いて、お話をさして頂いてもお話をさして頂いても、それが、ああー、実際に皆さんの信心生活にさほどん役に立っていない。というような事でありましては、うーん、私もお話をする、おー、精もないし、神様、金光大神様に対しましても相すまんことだなあ、どうしたならばこれが皆さんのものになるようなおかげになってくるだろうかと、その事を明けても暮れても思うわけでございます。
今晩も只今、えー、どのようなお話をさして頂こうかと思うて、今ここでお願いをさして頂きましたら、真の信心生活ができる。また、真の信心生活を願う氏子が1人ずつでも本当にできるという事のために話すのだという意味の事を頂きました。初めて私は、私の思いと神様の思いが同じであることを気付きました。ね。ですからね、本当の信心、真の信心、真の信心生活ができるところに安心があり、ね、人間最上の幸福があるのです。
ただ、信心が、ね、頼む事のための人間が、ああー、わがまま勝手な生活をさして頂きながら、そしてそこんところの私利だけを神様へ持ってくると。「こういう困った事になった、こういう難儀な事になった、これをどういしたら良いでしょうか」というそこのところだけに神様を利用し使うような信心では、いわばいつまで経っても人間の本当の幸せはない。だから、本気で私共が一心発起をさして頂いて、「真の信心生活とは」という事に目を向けさしてもろうて、おかげをこうむって来なきゃいけません。
今日夕方、ここをちょうど5時ごろ下がりました。下がりましたら、ある教会の他の総代さんで熱心に参ってくる方があります。ここから4、5里づらい離れた所の教会の総代さんです。半年ほど前にその町に胃がんの、おー、精密検査をされる、うー、何か、ああー、今日診察に行かなければならないことでたまたまそこの総代さん方2人がですね、その、まあ初期の胃がんだということになった。
それでもうびっくり致しましてね、それでまあ一生懸命神様にお願し、ところがある先生を(?)って、「まあ今のうちに早く手術をしたがよかろう」という事で1人の総代さんは素直にその手術をされるために入院されたけれども、どうしても手術したくない。そこでいつか、えー、筑水の信徒会の時に合楽におかげを頂いた時に先生がご挨拶をされた。その時の事が自分の心の中に何か焼き付くように残っておったから、「とにかく合楽の先生にご相談してみてからの事にしようと思うて、えー、参りました」と言うて参ってみえました。
けど、その時には「手術をせよ」とも「するな」とも、「医者にかかる」とも「かかってはいけない」ともなかったんですけれども、「一心に信心しておられれば安心です」という御理解じゃった。だから、あなたが、私がこの「泰」という、あの、安泰の「泰」という字を頂いた。ね。「泰」というのは、これは、ああー、これに「安」の字を付ければもう絶対安心という意味で御座いましょう。ね。だから、一心の信心をなさっていかれたら、これに「安」の字が付く。「安」の字が付いたら、いよいよ「安泰」だというお知らせを頂きましたから、そのことを伝えさして頂いた。
おかげを頂いてそれっきり、いー、医者に行く事をせずにまあ一心に神様におすがりをしておる。それから、えー、病院から最近また通知がありましてね、あのう、何かメールがあったから今日行かれたらしいです。またそこんとこをちょっとの(笑い)、耳が遠いから聞こえなかった。ちょうど長瀬さん達が来やしとりましたから、あっちの方に帰って来らしゃっかれたかもしれません。高島さんと2人。
それから、あの、うーん、「実は今日はその病院へ行って帰りで御座います」、何か言いよりなさるばってん分からん、えらい感激してから言いよりなさるから分からなかった。そしたら、よく聞かして頂いたら、ね、医者がね、(たまがった?)っちゅう。「確かにここに胃がんが、胃がんの巣だという処があった」っちゅうんです。胃がんができる前にまず巣ができるそうですね。胃がんの巣が。そこに胃がんがずっとこうがんができていくんだそうです。もう間違いなしにあったのに、胃のカメラを、この前の飲まして頂いて、写真に写してもらったら写真にはっきり残っておる。ところがね、今日はそれが全然の跡の形も無いちゅう。「あなたもう良うござとなさるけん」ということじゃった。もう感激のあまり、今日は病院の帰りにこちらに回らして頂いたと言うてお礼にできてきた。
ちょうどその時に日田の綾部さんがお参りしておられた。ある(?)のために、えー、とにかく2億からの借金を持ってどうにもできないであられるという方の為に、最近、うーん、もう本当にまあ信用貸しと言うかね、えー、または、ああー、本当に御信用を頂いて神様が親先生が良かろうとおっしゃるからと言うて、まあ判を押して来た。それが(よくよくしたでばかり?)今日は2億からになっとったちゅう。
もういよいよどうにもこうにもできないと言うような状態の中に「これがもし親先生任せになっていなくてこうなっとったらもうどうなる。その方だけじゃない、いわゆる(まるやめ?)のお店までも一緒にしまいてしまわなければならないほどしの事になりながらです、これを驚かんでもすみ、さほどに心配せんでもすむようなおかげを頂いて、私の心に今までかつてなかった大きな心というかね、もう修行はどんな修行でもしますから、ここのところから、日々神様の間違い無い働きの中に頂いておる間違い無い働きがこのままにおかげになっていく事を願っておる」というお話をしておられるところに電話が掛かって来た。
そしてまた、また新たに何百万かの(てあら?)な判を押せということであってくれないかという事であった。「ちょっと待って下さい親先生お伺いしますから」と言うて、えー、ちょうどそこへ、あの、電話を待たせてからお伺いに見えた。もうそれこそ、すぐ「おかげを頂かれたらよかろう」と、「はい」って言ってから、まあその返事をされますその様子、姿を見てからです、もうその他所から参ってきた総代さんが「ここの信者さん方は幸せですね」ちゅうてしみじみ言われました。
こういう大変な問題。そういう大きな財産が潰れるか潰れないか分からないほどしの事柄を「はい」一つでそうなってしまうような事柄をです、躊躇もなく親先生が「うん」とおっしゃったからと言うて「はい」という気になれれるという事は、まあ何という素晴らしい事ですかと言うて、えー、長瀬さん、高橋さんにそれを言うて話しておられました。私の今度の病気だって同じ事。同じ総代の御用を頂いとる1人は胃がん苦ために、手術を受けるために今現在病院に入院さして頂いておるが、私は同じ症状でです、ただ、ここに御神縁を頂いておった時の言をちょっと思い出さしてもろうて、お願いに参りましたら、心の中に何か安らぐかできる安心ができて、その代わり神様に一心におすがりさして頂いとりましたら、今日も今日とてただ今病院で医者から「こりゃ不思議」と言われた。この前はこげんちゃんと、こう、筋になっておる、そこんところががんの巣、そうこつになる土台ができておるというちゃんと。それが今日カメラにはそれが写らなかった。「なんと有難いおかげを頂くと頂かんの境、または、おかげを、ね、同じ金光様のご信心を頂いておってもこのようにも差があるものか」と言うて感動しておられました。ね。
ですから、そういうおかげを受けておられるという事は皆さんも同じなのであります。ね。なら、そういうおかげを頂いて頂きぬいたからと言うてです、ね、それが、なら信心生活ではありません。真の信心生活をさして頂くという事。ね。
私は今朝からの御理解を頂いて、もうそれこそ何十回頂いたか分からない御理解であります。天地神様という神様は昔から、うーん、途中からできた神でなし。昔からある神ぞと、ね。だから、この天地の親神様は繁栄もなからなければ終わりもない。ね。いわゆる流行り神様ではない。といわば天地の親神様のご性格をそこに宣言しておられる御教えです、ね。天地金乃神というのは今できた流行り神ではない。昔からあった神ぞと。ね。
だから、始めもなからなければ終わりもない。終わりもなからなければ、だから流行り廃りもないという事を宣言しておられる。だから、その神のおかげを受けるためには天地日月の心になることが肝要であり、信心はせんでもおかげはやってあるという御理解なんだ。
私は今日の御理解をもうあらゆる角度から、それこそ何十回にわたって頂いたけども今日また改めて、あら、角度を変えてみて、その、おー、御理解を頂いてからなるほどそうだなと思うた。世界中にある神。ああこぼれた。えー、世界中の氏子に、ね、信心はせんでもしかもおかげはやってあるという神。そういう神様を頂きながら信心はしておってもしておらなくてもさほど代わり映えがないというほどしのおかげしか頂いていないとするならこれはどういう事になるだろう。
なるほど、ただ今申します合楽の方達はです、今日、その、他所の総代さんが言われるように合楽の方達は幸せだと、こういう大変な問題に直面しておっても親先生が右とおっしゃれば右と、「はい」とそれを素直に聞けれるというか、それを先生の言われる事を信じれれる信心を頂きそういう教会に縁を頂いておられる方達がうらやましい。だから、そういうおかげを頂いておるという事だけが、ね、信心はせんでもおかげはやってある人よりは少しはマシというようなおかげではつまらんち。ね。
合楽のおかげを頂いてからこげなおかげも頂いたあげなおかげも頂いた、そこはちっとは違うけれども、そういうおかげじゃつまらんて。なるほど信心してござるから、なるほどと、もう誰でもが合点のいくほどしのです、また自分自身も、私が一番、開口一番に申しましたように私がおかげを受けておるという事をです、ね。こういう信心からこういうおかげが受けられるようになったという事を皆さんに聞いて頂いてでもです、ね。そりゃ、皆さんは「聞くだけだ」または私のその信心を「見ておるだけだ」という事であったら、「はあ、なるほど神様は間違いがないな」という事が分るだけではいかん、自分のものにならなかったら。
お取次を頂いて、なるほど一分一厘、間違いのない働きをそこに現すほどしのおかげを頂いてもそれが自分のものにならなかったら、さほどに値打ちはない。信心はせんでもおかげはやってあるおかげよりも少しはマシという。ところが、なら今日のその(?)お話を聞くと信心はせんでもおかげはやってあると言うが、んならこれは、例えば、先生が朝、ああもう病院で入院してから手術したが良かろうと言う事を「はい」と言うて、んなら手術をして、例えば、もしおかげを頂いても、それなら信心のある者もない者も神様が下さっておるところのおかげは皆一様というおかげでしょう。代わり映えがないでしょう、さほどに。ね。
なら、ここの場合はその、その、その場に直面して、えー、その、ああー、今の方がおかげを頂いたその話も、ね、今その綾部さんのそのお話もです、ね、なるほど合楽におかげを頂いておればこういう時にです、ね、迷うたり、ね、心配したりせんですむおかげを頂いておるという事だけではつまらん。私はその事を言われて改めて合楽の方達はおかげを頂いておる事を気付かしてもらってから、ああー、私は自分の部屋に下がらして頂いて、ご祈念をさしてもらいよった。そしたらね、ちょうど私と高島さんと綾部さんと河の家に立ってるんです、海の上に。実際そんな事できませんよね、畳の上に立ってるように立っているんです。
そして、私が、「さあこっちさ行こうか、こっちさ行こうか」と言う、私の言う通りに高島さんと綾部さんが着いて来よるさとこ。そして私共がその、まあ波止場ねのとこに上がらして頂いたら、その、私共が来ておった通りの道のところをです、もうそれこそどんな大きな舟でも巻き込まれるちゅうごとある、それこそ大変な水が巻いてですね、ずーっと。「ちょっと見てごらん、ちょっと見てごらん。あんな、今私共が来た跡をあげな渦が巻きよるばい」と言うて上から見よるとこじゃった。
本当に私が、なら御神意を頂いてからこっち行こうあっち行こうと言うてじゃないけれども私が行きよる所へ着いてさえ行きゃあです、例えそういう、家もろとも巻き込まなければならないような事になっておってもです、そこんところをほんの際際でずうっとおかげを頂いた。ひやひやはするけどね。そしたらです、綾部さんがもう「あげな私は大変な立派な衣装を持っておるけれども、あげな衣装はもう見た事もない」ちゅうごたる、(ほうもんどの?)素晴らしい着物を着ておられてから、足袋を履いてから、またそのお溝に行かれるんです。「あら、そしてあなたいっちょん沈まんじゃないですか」ちゅうたら、「もう信ずるという事です」ち言わしゃった。親先生の側におりさえすりゃいいちゅう意味かどうか知らんけれども、とにかく畳の上のようにして、そしてその、また渦がですねだんだん小さくなってから、こうなって綾部さんの前にやって来たら、綾部さんがね、その渦の上にこうやってまたがってから、してここを裾ばちいと上げて扇子ば出してから、こうこうやって何知らん仰ぎござっとこを頂いた。(笑い)
私はもうそれがあまりにも生々しいご神眼だったからね、もうびっくりしました。その着ておられる着物といい、そのあの渦にこう舞うとる具合といい、あらとてもどげな大きな家じゃろうがどげな大きな舟じゃろうがあの渦なら巻き込まれてしまうだろうというようなその渦の状態も、私共が上がったその姿も、よう畳の上のようにして、こう平気であの、海の上に立って歩いておられる事も、もう本当にそこに何か実際に何かこうして見ておるような御神眼でした。しかもその渦が小さくなったらね、そこんところをこう畳を歩くようにして歩かれるてですね、そして、着物をはぐってから扇子でこうかく、何か、その渦がこうやって自分の股くらの中にこうやって仰ぎ込むところを頂いた。
そしたら言われる事がですね、あの、それは、どう、それは何の真似なりですかちゅうて私が言うたらですね、「ここからが私の信心です」っちおっしゃった。親先生の信心に着いて行ってです、親先生が例えば信ずるという事を親先生から教えられたら、これから先、いやまた綾部サミエという人の個性のあるまた別な信心が生まれてくるのですよ。
これで私はそのまじないという感じでした。ははあ、こげなこつばまたがって股の中にこうやって仰ぎ込んだらですね、それはもうどれだけお金が儲かるじゃろう分からんちゅう、あの、うーん、まじないのように感じたんです、その後に。
ある時、私は御本部参拝さしてもらったら、大阪の連中がこうやってお参りをして来た。私、御祈念が終わっとったらちょうど、あの教祖の奥城の前に朝方でしたがね、一匹のクモがするするっと下りてきた、本当にこれは。そしたら、拝みござったらその前をおばさんがですね、「金光大神様」っちこう糸取ってから、自分のかばんへぽっと入れらっしゃった。(笑い)。これはもう一切が実際の事です。ね。
しかも教祖の神様の前で御祈念さして頂きよったらです、いわばクモが下がって来た。ありゃ(?)か(?)か何かっちゅうまじないあるです。ね。そのクモを、うーん、夕方見たらそのクモならばね、親にとったっちゃ殺せちゅう事です。(笑い)
朝方の下がって来たクモが何かその金銭に不自由しないという、まあいわばそういう、うー、言い、何かまじないがあるそうですよ。ちょうどね、その時のようなものを私は感じたです、その後に。渦にかたがってからこうやってから、扇子を出してかばんをかけて、股くらの中(笑い)、その渦をですね、自分の股くらの中に風ばこうやって送りござるところ。してから、どういう事ですかっちゅうたら、そういう意味の事を言われて、ね、例えば海の上を歩くという事でも、信ずるからできるのだという意味の事を言われたところで、覚めた。
神眼とも、もうお夢ともつかぬような、もう生々しいまでの事であった。ははあ、今日あてらの事でも、そうだったろうなあと思わしてもらった。とても普通でない、ああ、本当に電話一本で、しかもお伺い一つで、ここんところを右、左ぱっと決めれるという事は絶対にできないほどしの事柄をです、ね、そうしても、だからそこまでのおかげを合楽の人達の場合は恐々ながらでも親先生任せになっておるおかげを受けておるでしょうが。ね。
例えば佐田さんが御本部参拝をすると、ね、その参られる当時じゃなかったけれども、親先生がああ言われるからというて参った。参った、参ったおかげで今の家屋敷を取り留めたというようなおかげを頂いた。(笑い)。まあ、そういう例を言うならもう限りがなかですよね。うん。
だからね、信心はせんでもおかげはやってあるというよりか少しはマシなおかげを受けておる、ただしそういうマシなおかげを受けておるという間はです、例えで言うならば、ひょっとするとこれは私いちなりかも知れんのです。ね。ですから、自分自身、銘々がです、信心の徳を受け、力を受けさしてもらうおかげを頂いておかなければいけないかという事をです、ね、本気で分からしてもらう。そこで、本番の御理解。ね。
いわゆる真の信心を分らしてもらうという事。おまかせの、いわば信心。皆さんがそれこそ、ここんところは任せられておかげをこうむって来ておられる。ね。けれども、全ての事一切が、任せの生活というのは、ね、その信心が、その宗教がです、ね、生活のために存在しておるという信心であったら、それは少しはマシなというおかげだけなんです。ね。その信心が生活のためにあるのだと。
そこでです、宗教とは、ね、生活そのものが、ね、生活そのものが宗教。信心のために生活があるんだと分らして頂くという事。私と皆さんの違いはそこなんです。ね。起きてくる全ての事は私の信心の、いうならば根肥しなんだと。生活の全ては信心をいよいしょ成長さして頂くための生活なのだと。ね。皆さんの上で例えると、ね、生活のために信心があるのであるし、宗教は存在しておるのであるという事でしょう。ね。
ここのところが、はっきり分らして頂けるおかげを受けるという事がです、真の信心を目指す事であり、真の信心の徳が受けられる時であります。ね。
昨日は、私共の家内の父の、おー、立ち日でございました。家内と結婚しましてこの方私は父が亡くなります時に、いー、びわを頂いて、もう死ぬ時まで「おいしい、おいしい、世界一においしい物じゃ」と言うて頂いたという事を聞いておりましたから、もうこれはどんな時であっても、捜し求めて、ない時には(かるずめな?)でも、あの、おー、切ってお供をさして頂いて御霊様にお供をさして頂いておりました。20年前の私の一番どうにもできない時分ですね。
あの時分に10円のお金を持って、果物を買いに行った。10年くらいで、その、当時20年前でも買えなかった、びわは。昨日家内が買うて来ておりましたけども、一つが30円(?)くる、こんくらい。(笑い)。一箱が250円もした。ね。けれども、今がそれが2千円が2万円しようがです、今の私にはひとっつも無理なことじゃない。けれども、私が20年前はです、その10円で、とても普通は買えないのだけれども、果物屋のおじさんがどうぞどうぞとされたんでしょう、もういいですよ、持っていって下さいと言うて、落ちたとこの悪かとこばこうやって下さった。ね。
んなら、10円置いて来ましたけれども、その私はお供をさして頂いた時、その夜初めて御霊様との話し合いができました。はあ、これが御霊様との交流かなと思うた。出来る時するとは大した事なかですよ。お参りができるからお参りよる、お供が出来る時にさしてもらいよるとね、そら大した事はないです。けれども、お参りができん、どげん考えても。とても今の私が貧乏をしておるという事は神様も御霊様もご承知なんだ。知ってござるからと言うてです、ね、それを、もう成さなかったら、私は力を受けなかったと思うんです。これはもう一時が万事にそうなんだ。ね。
もしも私共の姿勢か、その神様へ向かうところの毎日の姿勢とでも言うか、そういう姿勢の時にはもう止むに止まれんどうが何が何があってもです、一つの例えばびわでもよいから、ね、どうかして求めさしてもろうて、お供をしたいという、そういう私は、ところを、私は頂き抜く事が信心だと思うんだ。いわゆる真の信心の力を受ける、真の信心の入り口だと私は思うんです、それが。
こげん忙しい事は神様もご承知だから、今は種が金がない事は神様も知っちゃるから、だけの信心では、それはおかげの世界ではあっても、力を受ける世界には入って行けない。本当の信心姿勢、真の信心生活に入って、お互いが皆そうだ、ね。おかげば頂かんならんから信心しよる、生活のために神様があるようなもんだ、けれどもね、信心そのものがね、確立してまいりますと、生活の全体が自分の信心のためにあるという事になるのです。その過程なんだ。
昨日は私共の幹三郎が一日当番、修行生の方が交代で神前奉仕をいたします。夜の御祈念も、まあ幹三郎が致しました。幹三郎が御霊様の前に今のおじいちゃまの、おー、式年、うー、式年じゃありませんけれども、お立ち日の、そのことのご挨拶をまあ、あれなりにさせて頂いておる、私はここに座っておる。して、私共の夫婦が玉串だけを上げました。して、そのおじいちゃんが喜ばれるだろうと思うて、一生懸命のお姿を見せて頂いて感動した。下りてきてから、彼が、ああー、皆さんにお話を聞いて頂いておる、ね。そこまでがその日その日の当番の修行生の方がやるんです。夕べもお話さして頂いておりましたが、「私はね、初めの間、親先生のお供をさしてもらって、朝の3時半にあの控えに出らせて頂く事がなんとはなしに有難かったけれども、この頃は少しマンネリになったようである」と、だからそのマンネリを打破しなければならんための苦心をまあいろいろと話しておりました。
ところがなかなかそこを抜けきらないけれども、「今は親先生、あの3時半から4時までの間を親先生は一日の上で一番有難い時間だと言われるけれども、私は前におって座っておってです、眠る倒れるごと眠たいです。また苦しい時である」と言うておりました。ね。親先生があの30分は一番有難いと言われるけれども、私にとっては一番苦しい時だと言う、ね。けれども辛抱させて頂いておるという事をです、申しておりましたが、その辛抱がです、ね、私はここがきつかけんでと言うて、いうなら信心を、まあ、ああー、おろそかにするとします。
そうお金がない事は分かっとるけん今度の御霊さんのお祭りだけには、もうびわは、ああー、お供えせんでおこうと言う事と同じ事なんだ。ね。そういう時こそが、ね、いうなら今日私が言うた、真の信心の本当の入り口であります。本当の神様との交流が頂けれる時であります。本当に神様から力を頂かせて頂く時であり、幹三郎が20年か30年かの後にです、この事が続き抜かれておかげを頂いたあかつきにです、本当にあの時分に、それこそ泣く泣く辛抱しいしいにお父さんの信心に着いていっておった、あの時分にお徳を受けるというなら受けたであろうと述懐する事ができるだろうと私は確信するとです。
ところが、そこの一番大事なところをです、お互いが大事にしないような、ね、忙しい事神様が知っちゃる、というような信心ではです、ね、少しはマシなおかげ、合楽では今申しましたようにね、「信心はなくてもおかげはやってある」とあまり、五十歩百歩の、ね、代わり映えのしないおかげしか頂いていないというある教会の人のお話。少しは合楽の御神縁を頂いとるけん、こげん時に慌てんですむというほどしのおかげ。おかげで家屋敷ぐらい取り留めたというぐらいなおかげ。そのおかげが何ヶ月続いたところで大した事ないもん。ね。
そこで、私共がいよいよ真の信心の入り口に立たしてもらえれるような(といつ?)、本当に力を頂かして頂けれるようなところをです、いよいよ大事にしなければいけない。ね。天地の神様は昔からある神だから終わりもない。なるほどそうだ。ね。だから、流行る事もなからなければ廃る事もない。そう頂いとるもんですから、いつでもこっちが一生懸命なりゃおかげが頂かれる。ただ今、大売り出し中というのだあるでその時には走って買いに行くばってん、(?)が大売り出しの安かとこにおかげを頂いとるもんじゃから、いつでん頂けれるごと思うて一生を終わったのでは大変だ。あの辺の所を今日はね、そういうふうに感じる、もう今日ね、私は非常に感じました。今日の御理解の中から。
なるほど、この神様はとにかく、ね、今は、大変流行ってござるばってん後から流行らんごたなさる神様ではないから、いつでもこっちが本気になればまた頂かれるといったようなことで一生、ね、そう言うておる間に一生を終わってしまうというような事ではつまらん。
(?)お互いが難儀なら難儀を感じるならです、その感じる時ほどその難儀をいよいよ大事にさして頂いて、そらマンネリになっても(かんまんから?)、泣く泣くでもそこを辛抱さして頂いて、ね、ない事は知ってござるけん(?)知ってござるからといったようなね、私は、信心ではもうおかげの世界以外に見る事はできんです。ただ、胃がんが治ったとかね、家屋敷を取り留めたというようなおかげだけに止まったんじゃつまらんでしょう(笑い)。
真の信心の入り口に立たしてもらって本当にです、ね、生活の全てが、お仕事の全てが、私の信心のためにあるのだという事になってくるとです、もういよいよ信心が有難いもの。いよいよ信心の力を頂いて行く事ができるおかげを受けれるのであります。ね。どうぞ一つそれを続けていくためには、ね、幹三郎じゃないけれども、ある方が亡くなってきた。これはマンネリから脱却しなければと、まあ努力しておるようですけれども、それを脱却できなくてもいい。ね。問題はそこを泣く泣く出も辛抱し続けてです、貫いていくというおかげをね、頂かしてもらわなければならない。そこから、力を受ける信心、いうならば「本当に信心ちはこんなに有難いもの、こんなに尊いもの」といかに私が思うても、それを言うて聞かせても、いうならおかげに現して見せても「なるほど」と言うて見ておるだけでは何にもならん。それが皆さん達のものにならなければならん。ためには今日私が申しましたようなところをです、ね、本当に、えー、信心はなくてもおかげはやってあるが、ね、んなら信心させて頂いておれば、なるほど信心頂いておるという代わり映えのあるおかげを頂かしてもらう信心に進んでいかなければならんと思うので御座います。どうぞ。